自分の中の安心・安全 自然体の自分とは

NZで留学生活を始めてから気づいたこと。いくつかある。

これを記録的に残しておこうかなと思う。

まず、安心・安全を求めようとする自分。

これについては二つあると思っている。

・安心・安全な人と自分が思えそうな人との繋がりを強く持とうとする

・一方で、そういう人達との繋がりが安心・安全かどうかが不安になる。確認しようとする。

どんな行動や心理からそう判断するか。

それを書く前に。自分のこれまでの「安心・安全」について書く。

これまでの人生の中で、音楽で繋がった友達とビアバーが自分の中での初めての「安心・安全」と言える人や場所だったのでは、と思う。

間違いなくそうだろう。

彼らと過ごす自分やそこで過ごす自分は、それ以外の時の自分と比較して、とても自然体でいられるから。

体が感じる緊張はあまりない。もちろん、初対面の時の緊張はあるけれども。

抑圧されていない自分に、相対的に一番近い状態だと言える。

今回の留学生活の中で、例えば学校で「きちんと話そう」的な時、緊張してうまく話せない。

厳密に言うと「きちんとやらなければならない」と”思ってしまう”時、どのような状況であっても。

そしてそれは必要ないのに。

音楽友達と話す時や、ビアバーで話す時は、基本的に肩書きというものが無い。

ただの一人の「僕個人」として話せる気がする。

気負いがないし、自分も周りに対してどんな肩書き、どの会社で働いているかとかは一切関係ない。

(自分の肩書きの話もするから、厳密にいうと”一切”とは言い切れないけれど)

どんなことをしているのか、という純粋な興味はあっても。

だから、自分の中での緊張の原因の一つは「正確にやらなければならない」と考えてしまうことだろう。

あとは、社会の中でどう判断されているか、みたいなところ。

今この文脈は当初から若干脱線していきている話題だけれど、もちろん、安心・安全かどうか不安になっている時もそうだ。

だから、音楽友達と会う、ビアバーに通うことを頻繁にすることで、自分の中での「安心」を保っていたように思う。

一方で、それを強く求めすぎていた部分もある。今振り返るとそう思う。

ある意味での「依存」状態だった気もする。

SNSでのやりとりを頻繁にしたり、それに対する返信を強く待ち望んでいたり。

COVIDの自粛期間中は一人でいることになんら不安もストレスも感じなかったけれど、

社会に出て人と接する機会が増えてくると、やはり不安が出てくる。

人間関係がそういう気持ちにさせるのだろう。

得られていた「安心」がないNZでの生活はとてもストレスで、不安に駆られるのは想像に容易い。

そして、ビアバーに行って多少なり同じような安心感は得られるもの、言葉の壁が障壁となって十分な感覚は得られない。

それはどんな状況でも同じ気がする。

言葉が十分に分からないと、安心であるかどうかが確かめられないからだ、今の自分の中では。

話を冒頭の話題に戻す。

安心・安全を確認しようとする行為の一つは、笑顔を確認しようとする。

それを求めようとする。そして、それを得られるとても安心するから、それを強く求めようとする。

なんなら「好き」レベルまで持って行こうとする、出会ってから短期間であっても。

そしてその対象となる人との関係を継続させようとする、出来るだけ失わないように、かな。

学校でも「この人は安心」的な人と頻繁に話そうとしたり。

なんというか、”一期一会”的な出会いができないというか、不器用というか、人との距離感をうまく保てない。

すでにそういう自分がいることは気づいていたけれど、二極化思考だから。All or Nothing。

さらに、心のどこかで「自分は何か悪いことをしていないだろうか、気に触ることをしていないだろうか」という気持ちが常につきまっとている。どんなに優しくされても。

人と話している時に、人のわずかな表情の変化を確認しようとする。

そして、(あくまでも)自分の過去の経験上「怒っている」「機嫌が悪い」と勝手に判断すると、萎縮してしまう。

だから、都度都度「大丈夫」と言ってあげている。安心して大丈夫だと。

これは完全に認知の歪みだと思う。

人間だから誰だって気分の浮き沈みはあり、機嫌が良い時もあれば不機嫌な時もある。

でも、そういう感情の変化の原因を全て「自分のせいじゃないか」と思ってしまう自分がいる。

不安になる。

なぜか。

事実はわからないけれど、記憶が無い幼少期の環境に影響しているのでは、と推測している。

ただ、この感情は大きな間違いで、「自分のせいじゃない」ことはすでに知っている。

なのに、まだそういう自分がいることに今回の留学生活を通じて気づいた。

ここで書いたような感情はもう必要ない、だから手放す必要がある。少しづつ。

なぜなら、自分が抱いている感情というのはほぼ「空想」であるから。

だから何度でも「大丈夫」と自分に言い聞かせる。

そして、「喜んでもらいたい」と思う自分。

自分の発する言葉や行動のいくつかは「なぜ」と考えた時に「相手に喜んでもらいたい」という気持ちがあると思う。

それは、自分が安心・安全な人、場所をつくるための行為のひとつの気がしている。

そして、こういうことをOverthinkしてしまうことが、シンプル、ミニマルに生きていくことの障壁となっていることは間違いない。

ただ、”こういう自分がいる”ということに気づけたことは、

これからシンプルに物事を選択して生活していく上での第一歩だとも思っている。

毎日の生活の中で、出来るだけ長い時間「緊張しない自分」「自然でいられる自分」でいられるように、

焦らずに少しづづ意識していきたいと思う。

Hiroki a.k.a HIRO
  • Hiroki a.k.a HIRO
  • 40代 / 躁鬱人
    サラリーマン歴15年
    2年前に会社を辞め、京都へ移住。
    NZの旅の途中で語学留学を思い立ち、2023年から語学留学を開始。
    2024年から木彫(Wood Carving)をはじめて、その面白さに気づく。
    現在、京都とネルソンの二拠点生活を目指している。

    興味:Carving(木彫) / 日本の文化(Japanese Culture) / 日本語(Japanese Language) / 京都(Kyoto) / 左京区(Sakyo ku) / 江戸時代(Edo Period) / 旅行(Travel) / 歩くこと(Hiking) / 農のある暮らし/ 環境問題 / 書くこと(Writing) / 音楽(Music) / 漫画(Manga) / アート(Art) / クラフトビール(Craft Beer) / Buddhism / Shintoism

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

trans