満たされない何か
自分が肯定できると思ってから一週間ほど。
人って不思議なもので、数日前に(一週間足らずなのに)その肯定が自分から離れそうになっていた。
先週はほとんど人にも会わないで、1日だけ知人らの開催するイベントに行っただけ。
一人でいる時間が多い中、ふと思ったこと。
「自分は満たされていない何かがありそう」
満たされていないから、たくさん買い物をする、過食する、多飲酒する。
何かの本にも確か同じようなことが書かれていた。
気持ちが満たされていないから、それに変わる物質的なもので自分を無理に満たそうとする。
事実、最近大掛かりな断捨離をして部屋にものがあまりない状態になっているのだけれど、
落ち着く一方で落ち着かない自分もいないわけではない。
そういう感覚や、これまで読んだ本から客観的に見ると、愛が足りていないと考えるのが妥当な気がしている。
ただそれは自分がどう受け取るか、受け取っているかの問題のようにも思える。
僕は時々「愛されキャラだね」と言われる。
実際、よく思ってくれる、よくしてくれる友人もいる。
昔は「愛なんて何かっこいいこと言っちゃってんの」と思っていたけれど、
今は愛が人にとってとても大切なものだと思い始めている。
単純に「さみしい」のかもしれない、とも思う。
僕は一人が好きで孤独も好き。それは確かにあると思うけど、
人とのつながりを欲している部分もあるのも確か。
1年以上続けた自粛期間の時には感じなかったこと。でも今は少しさみしさを感じているかもしれない。
何が違うのか。
自粛期間の時は仕事以外はやりたいことだけをやっていた。
畑、料理、学びたいことの勉強、映画を観る、漫画を読む。
やりたいことだけをやっていたから、それだけで満たされていて、さみしいという感覚はなかったのかもしれない。
じゃあ今は?
今は同じように自由な時間があるけれど、違うこととと言えば人と会う機会が多くなっていること。
あと、貯金はあるものの、収入源がないことに対する不安があるからか、
「しなければならない」という感覚でやっているような気がしている。
好きなことをして、好きなところに行っているのだけれど、
「これからの自分の生活を、生き方を決めるためにやらなければならないこと」のような感覚。
この差が自粛期間中と今とである気がしている。
純粋に”やりたい”と思う気持ちだけでやる。むしろそれが今は大事かも。
また、自粛期間中にはあった仕事(当時は会社の仕事)に変わる何かがある方が良いのかもしれない。
少ない時間であっても。
それによって、さらに自分の中での「好きなことをする」が解放されるかもしれない。
少なくとも今の時点では。長年会社員勤めをしていた今の時点では、ということ。
そういうところのバランスをとりながら毎日を過ごしてみると、
今感じているさみしさだったり満たされない何かが少なくなってくるかもしれない。
とりあえず今は「しなければならない」は極力しないで「したい、やりたい」だけをやることにする。
さらには、今は新しいことは手をつけずに、今やっていること、今自分ができることにフォーカスする。
先日も書いたかもしれないが。
一気に書いて少しスッキリしました笑
やっぱり書くことは僕にとってデトックスになります。